あおもり歴史トリビア第499号(令和4年4月1日配信)
「あおもり歴史トリビア」第499号(令和4年4月1日配信)
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〈青森市メールマガジン〉
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こんにちは! 室長の工藤です。
今日から新年度が始まり、このメールマガジンの配信も11年目となりました(次回が500回目の配信です)。この4月から歴史資料室に新たなスタッフも加わり、いずれメールマガジンの執筆者として登場してもらうつもりでおりますので、乞うご期待。
さて、最近私は弘前藩庁が「17世紀の初めにどうして新しい町づくり(=青森の町づくり)」を行ったのか、ということについて考えています。この謎解きのヒントは、当時の日本列島は「建設ラッシュ」と言えるほどに、各地で城と城下町が建設されたということにあるのではないかとみています(荒野泰典「江戸幕府と東アジア」、同編『日本の時代史14』、吉川弘文館、2003年)。
そして、この「建設ラッシュ」の背景には徳川氏によって「平和」が実現されたことにあります。歴史の教科書などではこれを「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼んでいます。
では、「建設ラッシュ」と「平和」がどう結びつくかというと、まず「平和」が実現したことで「いくさ」がなくなります。「いくさ」がなくなると、戦場を稼ぎ場としていた「雑兵」たちが糊口を凌ぐ術を失います。そうした雑兵のなかには傭兵(低賃金で雇われた奴隷的兵士)として海外に出ていく者もいましたが、新たな稼ぎ場として「城づくり」「町づくり」が提供され彼らがここに殺到したのです。
戦国時代の津軽においても、天正6年(1578)の大浦為信による浪岡城攻めの場面などで乱暴・狼藉におよぶ雑兵たちの姿が描かれています。そして、「平和」な時代の到来によって戦場と言う稼ぎ場を失ったこうした人々に対し、弘前藩庁が新たに提供したもののひとつが青森の町づくりだった…と考えてみることもできそうです。
そこで、この筋で青森の町づくりを読み解いていくと、しばしば言われる「南部氏の武力に備えた青森の町づくり」という考え方には相反することになります。なぜならば、青森の町づくりは「平和」の実現が前提となるからです。
私は青森の町づくりは「南部氏対策」ではないと考えているので、この視点に魅力を感じています。
《問合せ》
青森市民図書館 歴史資料室
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